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川面から見た神田川と日本橋川

  神田川と日本橋川が、今なお情緒あふれて都心を流れ、隅田川に注いでいます。

  その様子は、橋上から、あるいは路上からではなく、実際に川面を走ってみて、

そこに架かるひとつひとつの橋をゆっくりとながめてみるとよくわかります。

  そんな体験(1984年5月)をホームページの小道に載せてみました。

  なお、本文を記したのは東京ドーム完成(1988年)後です。

  神田川は、井の頭公園の弁天池に源を発し、台東区柳橋で隅田川に合流して

います。全長約25kmです。途中東京ドームの辺りで南に日本橋川が分かれ、

豊海橋で同じく隅田川に合流しています。また日本橋川は隅田川に合流する手前、

霊岸橋の辺りで南に亀島川が分かれ、南高橋、亀島川水門を経て隅田川に合流します。

  おさらいをしますと東京ドーム辺りまで一本であった神田川が、そのまま神田川、

日本橋川、亀島川と三つに分かれ、それぞれが隅田川に合流します

  では、上記の川の流れと逆ですが、この水系を一番下流の亀島川と隅田川の合流点、

亀島川水門を起点として、小船のR散歩でたどってみましょう。

  (絵地図動画で全コースが確認できます。


出発前に順路をご案内いたします。

 ・まず起点の亀島川水門から隅田川を遡ります≪隅田川コース≫

     リンク:このコースの絵地図静止画   ≪隅田川コース≫へリンク

     【起点 亀島川水門】→【中央大橋】→【永代橋】→【隅田川大橋】→【清洲橋】

    →【新大橋】→【両国橋】→

 ・次に墨田川から左に折れて神田川を西へ遡ります≪神田川コース≫

     リンク:このコースの絵地図静止画@  このコースの絵地図静止画A

         ≪神田川コース≫へリンク

    →【柳橋】→【浅草橋】→【左衛門橋】→【美倉橋】→【和泉橋】→【万世橋】

    →【昌平橋】→【聖橋】→【御茶の水橋】→【水道橋】→【後楽橋】→

・さらに神田川から左に折れて日本橋川を下ります≪日本橋川コース≫

     リンク:このコースの絵地図静止画@  このコースの絵地図静止画A

         このコースの絵地図静止画B  ≪日本橋川コース≫へリンク

    →【三崎橋】→【新三崎橋】→【新川橋】→【堀留橋】→【南堀留橋】→【俎橋】

    →【宝田橋】→→【雉子橋】→【一ツ橋】→【錦橋】→【神田橋】→【鎌倉橋】

    →【新常盤橋】→【常磐橋】→【常盤橋】→【一石橋】→【西河岸橋】

    →【日本橋】→【江戸橋】→【鎧橋】→【茅場橋】→【湊橋】→【豊海橋】

    →(隅田川に合流)→【永代橋】→【中央大橋】→【亀島川水門:起点に戻る】

・茅場橋のすぐ下流を右に折れて亀島川へ≪亀島川コース≫

     リンク:このコースの絵地図静止画  ≪亀島川コース≫へリンク

    →【霊岸橋】→【新亀島橋】→【亀島橋】→【高橋】

    →【南高橋】→【亀島川水門:起点に戻る】

(注)首都高速道、JR鉄橋、および近年架設された橋は記述の対象から除きました。

出発!

≪隅田川コース≫順路案内に戻る

【起点:亀島川水門】


【中央大橋】

長さ215m、幅25m。平成5年(1993年)架設。

起点から隅田川を上流へ遡上してすぐ、墨田川架橋の中で一番新しく、斬新な
デザインの橋(2004年4月現在)、中央大橋に出会います。右手に石川島公園
と大川端リバーシティ21の高層マンション群が望見されます。隅田川や東京湾、
東京の街、さらには関東平野とそれを取りまく山々が一望できる都会のマンション
には、高嶺の花ながら、やっぱりあこがれますよね。周辺はドラマのロケスポット。


【永代橋】

長さ185m、幅22m

大正12年の関東大震災で大破したため、昭和3年4月(1928年4月)に架け替
えて現在に至る。

大きな鉄骨で弧を描いた重量感あふれたご存知永代橋は、江戸時代には眺望、
納涼の名所として、また諸国廻船の発着の場として知られ、現在でも周辺に食品
酒類問屋や倉庫などが点在し往時がしのばれます。忠臣蔵の四十七士も討ち入
りの後、この橋を渡って高輪の泉岳寺に向かったとされています。橋の上の永代通り
を東に行くとほどなく門前仲町に至り、参詣の名所「深川不動堂」や「富岡八幡宮」
があります。


【隅田川大橋】

長さ385m、幅30m。昭和54年(1979年)10月に架設。

1階が一般道路の隅田川大橋、2階が首都高速9号深川線の2階建ての橋です。
上流の清洲橋と下流の永代橋にはさまれて、景観が今一といわれて有名になった
橋です。それはともかく西岸にすぐ箱崎の東京シティエアーターミナルがあり、いわば
世界に通じる橋ともいえます。

また、エアーターミナルの近くにはお産の神様「水天宮」があります。さらにその先には、
江戸情緒たっぷりの人形町が開けています。


【清洲橋】

長さ186m、幅25m。昭和3年(1928年)5月に架設。

隅田川架橋の中で一番美しいといわれる橋で、関東大震災の復興事業のひとつとし
て新たに架設されました。自定式吊鋼式橋(吊り橋)といって世界的にも珍しい橋だ
そうです。橋上は清洲橋通りで東側に清澄庭園があり、西側は浜町の一帯です。


【新大橋】

長さ170m、幅14m。昭和52年(1977年)10月に架け替え。

橋の中央に高い主塔が2本建って、その頂上付近と中ほどからケーブルが斜め下に橋
の両縁まで延びて橋を支える斜張橋。シンプルな美しさが印象的です。

橋上は新大橋通りで、東岸に芭蕉記念館(芭蕉庵)、西岸に浜町公園と明治座があります。


【両国橋】

長さ162m、幅24m。昭和7年(1932年)11月に架け替え。

武蔵の国と下総の国をまたぐことが名の由来。橋の東側は相撲の国技館、江戸東京
博物館、吉良邸などその名が全国的に知られたスポットがあります。また、関東大震災
と東京大空襲の被災者の慰霊と教訓を伝える震災記念堂がありますが、今巡っている
橋の多くが関東大震災後の復興橋だったりして、震災との関わりが深い特徴があります。
西側は浅草橋の「おもちゃ・人形・文具問屋街」や日本橋横山町の「繊維問屋街」の
伝統的な商業地区があります。

さあ、まもなく左手に、神田川の出口(隅田川への合流点)が見えてきました。そこを左
に折れて神田川に入って行きましょう。と同時に神田川の最後の橋、かの有名な柳橋
も見えてきました。ちなみにここからの橋は水面と橋桁の間が狭いので、船によっては干潮
の時しかくぐり抜けられません。


≪神田川コース≫ 順路案内に戻る

いよいよ神田川です。小船が左に旋回して神田川の河口から上流に向けて見えてきます。
すぐ前方には緑色のこじんまりとした柳橋が、「ようこそ!」とやわらかく迎えます。実際は
鉄骨のアーチ橋なのですが、自然とにじみ出ような風情と情緒が醸しだされます。

初めてこの景観を見たときは、まるで新しい世界、あるいはずっと前から見たかった光景を
やっと見ることができた、童心のようにわくわくした気持ちになりました。また、柳橋の橋桁と
川面の間からは、浅草橋さらにその向こうの左衛門橋が重なるように覗かれて、小船に乗
った来客の出迎えに奥ゆかしさを添えます。

なお、このあと神田川、日本橋川の橋脚の下を通り抜けて行きますが、その印象は、幅が
20mほどの門を上に見上げながら、ゆっくりと通りいくような感じです。ちょうど、隅田川の
大きな橋の下を通り抜けるときに感じる、なんともいえぬ重圧感とは対照的です。


【柳橋(隅田川から望む)

長さ38m、幅11m。昭和4年(1929年)12月に竣工。

周辺の伝統的な問屋街の存在と相まって、永く花柳界としてにぎわってきたのはあまりにも
有名です。また川岸には船宿も多く、岸壁を川に突き出て太くて高い丸太に支えられた木
造の船小屋が、川面から見上げると空中に浮いているように見え、ここならではの景観を呈
しています。その一方このあたりは最近、マンション化も進んでいます。

(神田川の水面から柳橋を観る)

【浅草橋】

長さ35m、幅34m。昭和5年(1930年)現在の橋に復興。

橋上は「江戸通り」で、北に「おもちゃ・人形・文具問屋街」、また南に日本橋横山町の
「繊維問屋街」が広がっています。

(水面から船着場を見上げる)

【左衛門橋】

長さ35m、幅15m。昭和5年(1930年)架け替え。

その昔このあたりは、大名酒井左衛門尉の屋敷があり、左衛門河岸と呼ばれていました。


【美倉橋】

長さ35m、幅22m。昭和3年(1928年)架け替え。

この周辺は明治時代町名が美倉町といっていたのが、橋の名の由来。


【和泉橋】

長さ35m、幅44m。昭和4年(1929年)架け替え。

藤堂和泉守の屋敷が近かったことが橋の名の由来になっています。

美倉橋にかけての北側が正米市場(しょうまいしじょう:現物の米を取引する市場)跡です。

橋上は「昭和通り」です。


【万世橋】

長さ26m、幅36m。昭和5年(1930年)架け替え。

橋上は「本郷通り」で、北に秋葉原の電気街、南詰めには鉄道ファンのメッカ交通博物館
(旧万世橋駅跡)があります。同じく橋の南詰めに、老舗グルメのピンポイント「肉とラーメン
の万世本店」があります。


【昌平橋】

長さ22m、幅31m。昭和3年(1928年)に架設。

その昔、相生橋、あたらし橋、芋洗橋ともいわれた。

北側の昌平校(湯島の聖堂)が橋の名の由来です。

(聖橋と神田川を渡る丸の内線電車を望む)

【聖橋】

長さ32m、幅22m。昭和2年(1927年)に関東大震災後復興。

立体的な高い橋脚美は東京の新名所としてあまりにも有名。また、北側の湯島の聖堂と南側
のニコライ堂、二つの聖堂を結んでいます。また、湯島の聖堂の北側に神田明神があります。

ここから御茶ノ水橋の両岸界隈は、多くの大学、医科大学、専門学校が集まっています。

(御茶ノ水渓谷を走る友船・右上はJR御茶ノ水駅・後方は聖橋)

【御茶の水橋】

長さ30m、幅22m。昭和6年(1931年)架け替え。

この辺りは深い渓谷になっていて、橋上から俯瞰したながめとともに、川面から両岸を仰いだ景観
は格別で、まさに都心の名勝を行くといった風情があります。その中で水道橋に向かう左手の中腹
に、つまり中央線の線路から少し下がったところに大木が倒れ掛かっています。これは大正12年の
関東大震災での痕跡とのことです。その後、先の大戦を経て「約80年間よくそのまま残っています
なあ」との感に打たれます。これはきっと、そっとしておいたのでしょうね。放置ではなく。御茶ノ水の
名の起こりは、江戸時代に将軍家の茶の湯に用いる清水が、この渓谷から湧き出ていたことにあ
ります。

↓(御茶ノ水渓谷の岸壁に生い茂る植生1御茶ノ水渓谷の岸壁に生い茂る植生2関東大震災で傾き生き残った木

【水道橋】

長さ17m、幅31m。昭和3年(1928年)に架設。

水道橋の下流約130mのところに神田上水の懸樋(飲料水を運ぶ木の橋)が、北から南に神田
川に架けられ、神田や日本橋の住民に供せられたこと(明治44年:1901年まで)が橋の名の由来
となっています。橋上は「白山通り」。


【後楽橋】

長さ21m、幅22m。昭和2年(1927年)に関東大震災後復興。

北側はご存知東京ドームの一帯と小石川後楽園が広がります。


≪日本橋川コース≫ 順路案内に戻る

後楽橋の上流、左手(南側)に日本橋の入り口がありますが、そこを左に進入して日本橋川を下っ
て行きます。曲がってすぐ三崎橋ですが、この辺りはおびただしい、大きな鯉が群れていました。なお、
ここから湊橋の先まで、日本橋川は首都高速の高架に覆われています。


【三崎橋】

長さ27m、幅7m。昭和29年(1954年)に架設。

この辺りは、江戸時代に埋めたてられ、明治時代に再掘削されて現在の位置に架橋された。

ここから南堀留橋付近までを堀留川ともいいます。


【新三崎橋】

長さ27m、幅8m。大正15年(1926年)に架設。

過ってこの辺りは三崎河岸と呼ばれた。


【新川橋】

長さ22m、幅11m。昭和2年(1927年)に架設。


【堀留橋】

長さ25m、幅27m。大正15年(1926年)に架設。

江戸絵図などを見ると、お堀はこのあたりでせき止められていた。

↓<BR>

【南堀留橋】

長さ26m、幅11m。昭和3年(1928年)に架設。


【俎橋】

長さ26m、幅12m。昭和4年(1929年)に架設。

そりがなく、俎板のような形をしている。神田に幕府の御台所をつかさどる役人が集まった
御台所町があり、そのそばにあったのでこう名がついた。橋上は「靖国通り」で、東側は神
田神保町です。その先には神田書店街があります。ここから常盤橋あたりまでを内濠川と
もいいます。


【宝田橋】

長さ26m、幅7m。昭和34年(1959年)に架設。

次の雉子橋に向かって右側に、江戸時代の石垣が残っています。その組み立ては
小船にのった川面からしか見えません。ところが上に首都高速の高架がかかっていて、
薄暗く見えるところがなんとも時代がかっています。


【雉子橋(きじばし)】

長さ34m、幅27m。大正14年(1925年)に架設。

さらに次の一ツ橋にかけても右側にも、江戸時代の石垣が残っています。江戸時代
の石垣には、丸や四角の紋様があるとのことですが、そこまでは観察できませんでした。


【一ツ橋】

長さ30m、幅28m。大正14年(1925年)に架設。

徳川御三卿の一橋家御門の石畳の一部が残されています。

一橋大学の由来でもあります。


【錦町橋】

長さ33m、幅22m。昭和2年(1979年)に架設。

関東大震災の復興橋のひとつ。次の神田橋にかけても右側に江戸時代の石垣が残
っています。


【神田橋】

長さ33m、幅34m。大正14年(1925年)に現橋架設。

江戸三十六見附(見張り場所)のうちの内郭神田御門の跡が鎌倉橋に向かって右手
に残っています。


【鎌倉橋】

長さ30m、幅22m。昭和4年(1929年)に架設。

関東大震災の復興橋のひとつ。周辺は鎌倉からの石材をこの河岸で陸揚げしたことから
鎌倉河岸と呼ばれる。

次に見える[JRの鉄橋]の橋桁の中央には、旧国鉄の紋章である「動輪のレリーフ」がつい
ています。これは川面からのみ見られます。


【新常盤橋】

長さ20m、幅27m。昭和4年(1929年)に架設。

すぐ脇に山手線・京浜東北線の鉄橋があり、地上からは橋と川の存在がわかりにくいが、
川面からは川の存在はもちろん、橋の形状がはっきりわかります。


【常磐橋】

長さ32m、幅11m。明治10年(1877年)に架け替え。

千代田区内では唯一の石橋です。同じ「ときわばし」でも次の「常盤橋」と区別されます。


【常盤橋】

長さ38m、幅27m。昭和元年(1926年)に架設。

この橋以降を日本橋川と呼ぶことがあります。


【一石橋】

長さ50m、幅31m。大正11年(19222年)と昭和50年(1975年)に架け替え。

川の両側に、「五島(五斗)さんと後藤(五斗)さんが住んでいて合わせて一石」が、橋の名
の起こりの一説となっています。


【西河岸橋】

長さ52m、幅11m。大正14年(1925年)に架け替え。

日本橋の西の河岸が橋名の起こりです。


【日本橋】

長さ48m、幅27m。明治44年(1911年)に架け替え。

現在の日本橋は、川面から見るようにデザインされているとのことですが、なるほど川面
から見ると、花崗岩製の二連アーチの橋脚に麒麟や獅子のレリーフが装飾されていて、
橋全体と調和しているのがよくわかります。

また、この周辺は関東大震災まで魚河岸のあったところで(その後芝浦の仮市場を経て
現在の築地魚市場に移設される)、その記念碑が橋の北の袂あります。またそのすぐ神
田よりには、今でも日本経済に大きな役割を占める、デパートの老舗三越本店や金融
の総本山日本銀行があります。

ではここで、福が授かるといわれる日本橋七福神の外部ページを参照してみましょう。

↓(水面から観る日本橋と首都高速道路の交差

【江戸橋】

長さ25m、幅14m。昭和2年(1927年)に架け替え。

関東大震災の復興橋のひとつ。ここから鎧橋に至る右側(南側)の兜町一帯は、証券街
を形成してわが国の直接金融の一大中心地です。


【鎧橋】

長さ56m、幅19m。昭和32年(1957年)に架け替え。

橋の南の袂には、直接金融の相場を決める東京証券取引所があります。


【茅場橋】

長さ52m、幅33m。昭和4年(1929年)に架設。


【湊橋】

長さ49m、幅18m。昭和3年(1928年)と平成元年(1989年)に架け替え。


【豊海橋】

長さ46m、幅9m。昭和2年(1927年)に架け替え。

よみは「とよみばし」。ここをくぐるとすぐ隅田川に合流します。するとまたすぐ右手に巨大な
永代橋現れます。ここをくぐり、さらに中央大橋をくぐると起点の亀島川水門にもどります。


≪亀島川コース≫ 順路案内に戻る

(茅場橋の先を右に亀島川に入った場合)


【霊岸橋】

長さ40m、幅33m。昭和5年(1930年)に架け替え。

寛永元年(1624年)、霊厳上人が法力をもって江戸八丁堀の海上を陸地に築き、一宇(建物)
を建て霊厳寺と号した。この地の北から茅場町へ渡る橋を霊岸橋と名づけたことに因みます。


【新亀島橋】

長さ30m、幅15m。平成7年(1995年)に架け替え。

関東大震災後の市区改正にともなって鋼桁橋に架け替えた。橋の袂(東京駅寄り)には
大震災と東京大空襲の殉難者の供養碑が建っています。


【亀島橋】

長さ31m、幅22m。昭和4年(1929年)に架け替え。


【高橋】

長さ32m、幅22m。大正8年(1919年)に架け替え。

亀島川の川口に近く船舶の出入りが頻繁だったので、橋台の高い橋を架けたのがそのまま
橋の名になったといわれる。


【南高橋】

長さ63m、幅7m。昭和7年(1932年)に架設。

新川2丁目あたりは海辺の物揚場として江戸時代から倉庫が並んでいましたが、現在は住友
や三菱の大倉庫のあとのビル群が建っています。


【亀島川水門:起点に戻る】

(隅田川に合流)

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